アナログ世代のメッセージ
おはようございます。私事ですが、明日12月10日は、私の○歳の誕生日で今年は、今までとは違った日になりそうです。そこでふと思ったのですが、この会社との思い出を語れるのは自分だけだ、これは皆さんにお伝えしなければと思い今日に至りました。
私は、昭和47年に高校を卒業して、2部制の大学へ入学のため、能勢鋼材へ入社しました。当時の会社は、先代社長、奥さんを含め10人で建家はこの横、現在2階に材料を保管している敷地で、2階建てでした。 これは訪問先でもよく話題にしている事ですが、私の“ 大阪 ”第一印象、-暗い・汚い-で、この地域は準工で周りは工場でびっしり、今の事務所の敷地はコンクリートブロックを扱う建材屋さん、会社前のタイムス駐車場の一画までは九州産交のターミナル、たこ焼き屋さんの一画はアパート、ルネのマンションは化学工場でその他、現在マンションや建売り住宅が建っている場所は以前、大抵が工場でした。
当時ステンレス製品の流通量は少なく、鋼種はSUS27(SUS304)が、ほぼステンレスの総称のような印象がありました。笑い話として、よく覚えているのが、先代社長からステンレスの丸棒を、自転車の荷台に括り付けて配達するときに、誤って川に落としてしまったという失敗談でした。又、リヤカー、バタ公(三輪自動車)で配達したというような話で、現在からすれば何時の話と訝られる事かと思います。
設備は、T3までのシャーリング切断機、高速砥石切断機、ベンダーでした。
在庫商品は、数点の板と僅かのパイプ(巻きパイプも含む)、それにφ80程度までの丸棒で、その中でもパイプは、切断販売をしている業者は無く、我が社が草分けだったと思います。余談ですが販売最盛期にはシームレス品も在庫を置き、一時はパイプの販売が他を凌いでいたと思います。
需要先様としてステンレスが関わる産業の中で、造船業界は特に活況を呈し、時には余剰品が市中に払い下げられる事もあり、その中には初めて目にする商品も少なくありませんでした。そしてステンレスの流通量が少なく貴重品でありましたので、サイズ・材質もお客様との話し合いである程度は融通が利きました。
そして数年であっという間に業界も大変身を遂げ、拡大、減退そして調整と現在に至っています。
近年、たらればではありませんが、もし( )、( )を5年、或は10年前から行っていれば、また違った展開になっていただろうと過去を振り返ってよく思います。
会社の業容も随分変化してきましたが、キーワードとして、謙虚で熱心な気持ちをいつまでも忘れないでください。
アナログ世代よりのメッセージです。
※上記の( )は、皆さんで考えて下さい、過去の歴史を教訓に!!